第250回(9月1日)北方領土特集=LNG発電所建設を(4)
  前回は仲論文の(上)、(中)から、どさくさ紛れのソ連参戦―北方4島無血占領に至るまでを抜粋したが、今回は長丁場の平和条約交渉の経過など再び仲論文の要約を掲載した。論文の中で、仲氏は「北方領土問題には名案も妙案もない。但し、ロシアが日露間の領土問題を最終的に解決するため平和条約の締結を何度も提唱し、歯舞、色丹の2島返還に応じることを今も示唆する一方、現時点までこれを1度も正式に撤回していないことが唯一の突破口になりうる」とし、取りあえず2島返還での平和条約締結も選択肢に挙げている。仲氏は日露戦争の講和全権大使・小村寿太郎外相が、敗戦国ロシアの頑強な抵抗と日本国民の激しい抗議行動に直面しながらも、日露の軍事的余力と国際情勢の全般を冷静に勘案してロシア案を飲んだ故事を引き合いに、「歯舞、色丹2島だけの返還で歴史が終わるわけではない。変転する国際情勢の中でその後も辛抱強く2島の返還を働き掛ければよい。北方領土問題は外交上手のロシアと時間こそが手強い相手だ」と柔軟対処を提言している。

降伏調印を3日越えた無血占領
 【5】このように北方領土の無血占領は、同月2日の降伏文書調印の「最終終戦」すらも3日ほど越えているが、ソ連は一連の軍事作戦の継続中と言うことで、頬被りしている。1951年のサンフランシスコ平和条約で、日本は独立の回復と引き替えに旧植民地と千島列島を放棄したが、平和条約交渉で日本は①歯舞、色丹は地理学的に北海道の一部だ②国後、択捉もまた、古来から南千島と呼ばれ、歴史的に固有の日本領土であり、放棄した「千島列島」には含まれない――と主張、ソ連が当時、6年間実行支配していた4島の即時返還を求めた。惜しまれるのは米国が戦後暫く旧連合国のソ連に配慮し、明確な日本支持を打ち出さなかったことだ。米ソ冷戦が激化し、日米が緊密な関係に入った1950年代から、米国務省は「(歯舞、色丹は言うまでもなく)国後、択捉は常に日本固有の領土。正当に日本の主権下にあると認められなければならない」と述べてきている。日ソの国交再開を取り決めた1956年12月の日ソ共同宣言の中で、ソ連は「北方4島のうち、歯舞、色丹の2島返還で正式に平和条約を結ぶ用意がある」ことを初めて表明した。それから約40年後の95年(平成7年)3月の日露外相会談も、この合意を確認した。8月13日の読売は「(鳩山一郎政権時に)『2島』で合意する機運が生まれるや、米国は2島に国後、択捉を加えた4島返還を求めるよう日本へ圧力を強めた。ダレス国務長官は、対ソ交渉に当たる重光葵外相にこうクギを刺した。『国後、択捉をソ連領と認める場合、米国は沖縄を永久に領有する立場に立つ』・・・日ソ両国は、領土問題を解決できないまま56年10月、『共同宣言』に署名した」と報じた。沖縄返還前の交渉なら止むを得なかっただろう。

2島返還も伝統の折半方式か
【6】今世紀に入った01年3月のイルクーツクでの森喜朗首相とプーチン大統領の首脳会談でも同様趣旨の合意が表明された。ロシアは戦後、中国などとの国境確定方式を「折半方式」で解決してきた。面積が大きく違う北方4島を国後、択捉がロシア、歯舞、色丹が日本で“折半”するのは、面積や資源などでロシア側に遙かに有利だが、形の上では「折半方式」になることは間違いない。日本側は戦後から今日まで戦前の北方4島居住者や後押しする政治家たちが、原則論的な4島一括返還を主張し続ける一方で、数年前から鈴木宗男前衆院議員らの2島返還先行論(森政権が模索)が浮上している。露側の姿勢が近年一変したのは、麻生太郎元首相が09年5月、「ロシアは戦後北方領土を不法占拠し続けている」と発言、民主党政権になっても鳩山由紀夫前首相が同趣旨の国会答弁を繰り返し、同年7月に国会が北方4島を日本の領土と明記する「改正北方領土特措法」を採択してからだ。これらの動きを日本側姿勢の劇的変化と受け取り、メドベージェフ政権は、連邦政府による南クリール諸島(北方4島)の社会、経済開発を策定、北方4島を完全にロシア化する方向に舵を切った。国後、択捉島には学校、幼稚園、病院などが多く建設され、北朝鮮の建設労務者がコンテナハウスに寝泊りし低賃金で働いている。中国の出稼ぎ農民も多い<注=麻生政権では歯舞・色丹・国後に択捉島の半分を加えた3・5島返還論が出た。面積では折半方式に該当する点から検討された。他にも2島+αなど様々な案がある>

陸軍の面子で米との講和避けた
 【7】20世紀に日本が経験した最大悲劇は、昭和6年の満州事変から始まる「昭和大戦争」だが、もっとましな選択肢はなかったか。終戦を不必要に遅らせた背景は、①開戦に先立ち、講和を斡旋してくれる第3国を想定しての、根回しをしなかった②終戦交渉を直接の交戦国の米国に対し、行う意図も勇気もなかった③講和の斡旋を長年の潜在敵国であるソ連に持ちかけるという最悪の選択をした――の3点に落ち着く。①については、日露戦争2年前に日本は当時、列強第1位の英国と同盟を結び、ロシアに無言の圧力をかけた。②の要因は、陸軍中心の強硬派が面子にこだわり、最後の土壇場に追い込まれるまで主敵米国との和平交渉を逃げ回った。中央突破を考えた数少ない1人が元老の中心で昭和天皇に最も近い近衛文麿元首相。近衛は終戦半年前の宮中懇談で、「米国と講和する以外にない。無条件降伏しても、米国なら日本の国体を変革し、皇室をなくすことはしないと確信する」と奏上、天皇も納得したという。これは参内の帰途、吉田茂に打ち明けた実話だ。米国との直接交渉を提唱した有力者には佐藤尚武駐ソ大使(元外相、戦後参院議長)、加瀬俊一駐スイス公使らがいたが、ソ連経由の和平工作に傾注した東郷茂徳外相が一切を封じ込めた。
――仲氏は「終戦はなぜこんなに遅れたか」で上記を指摘したが長崎被爆の原因でもある。(以下次号)