第249回(8月16日)北方領土特集=LNG発電所建設を(3)
 戦後66年の終戦記念日を迎えた。頑迷固陋な軍部が終戦を遅らせたため、3月10日の東京大空襲で10万人、4~6月の沖縄決戦で10万人、8月6,9日の広島・長崎原爆投下で20万人と、民間人の戦没者は計40万人。戦闘員の175万人を合わせると戦没者は215万人を数えた。それにシベリア抑留の捕虜は60万人で強制労働の結果、その1割が不帰の人となった。旧満州の残留孤児も悲惨な生涯を送った。団塊の世代に育った身には悲劇の実態を知る由もないが、日本は奇跡的繁栄を取り戻し、返還された小笠原は世界遺産に登録された。政治に携わる者として、戦後ただ1つ取り残された日露平和条約の締結は早急に解決しなければならない課題である。北方領土の引揚者は半数以上が逝去、生存者は1万7千人以下(7000人以下という説も有)に激減、やがて故郷に残るのは墓標だけとなる。長崎原爆投下の9日、どさくさ紛れに対日参戦し、戦後一貫して強引に実効支配を続けてきたロシアにとっては「正当な領土」の主張がしやすくなるだけだ。国内には「旧ソ連が不可侵条約を破って対日参戦したのはけしからん」との世論が支配的だが、ソ連が何故ポツダム宣言に乗って北辺の小さな4島に攻め込んできたか。今回は旧ソ連の意図を十分に検証しサハリンLNG発電所建設の必要性など、経済協力を前提とする日露交渉の今後を展望してみたい。

浅田次郎が占守島の激戦描く
浅田次郎が書いた「終わらざる夏」は昨年夏のベストセラーになった。浅田は「鉄道屋(ぽっぽや)」で直木賞を得た推理作家だが、「終わらざる夏」は推理ドラマではなく、終戦前夜の千島列島が舞台の戦争小説。昭和天皇の玉音放送の3日後に起きた千島最北端の占守(シュムシュ)島の激戦を風化させないために描いている。8月18日未明、8千人を超えるソ連軍が占守島に猛烈な上陸作戦を仕掛け、2万3千人の日本守備隊と激戦を展開、ソ連軍1567人、日本軍1018人の死傷者を出した。第2次大戦中にソ連軍が日本軍を上回る被害を出したのは、皮肉にも終戦直後の攻防戦だけだ。それだけにロシアには「血であがなって占領した領土」の意識が強い。これに対し、小説には終戦当時両国間には「不可侵条約」があり、ソ連が破って旧満州(中国東北部)や旧樺太(サハリン)南部、千島最北端の占守島に侵攻してきたとするくだりが、上巻で5回、下巻で11回の記述がある。だが下巻では突如「不可侵」が姿を消し、「中立条約」が4回登場している。

ソ連は不可侵でなく中立条約
それを指摘したのは桜美林大学の仲晃名誉教授。実際に日ソが昭和16年4月に調印したのは「不可侵」ではなく「中立条約」だった。仲教授は共同通信のワシントン支局長など主として外信畑を歩き太平洋戦争の全容を取材した安保・外交など国際政治学の権威。論説委員を経て桜美林大に迎えられた。仲氏は新聞通信調査会の会報「メディア展望」の1~3月号に、「終わらざる夏」の読後感を3回に分けて掲載。(上)は「終戦の忘れ物を検証する」(中)は「北方領土返還に最後の機会」(下)は「終戦はなぜこんなに遅れたか」とのサブタイトルが付いている。北方領土問題を知るうえで大変参考になると思い、仲教授の承諾を得て論文を【1】~【7】までに分け、さわり部分を下記に抜粋させて頂いた。
【1】どうやら著者(浅田氏)は「不可侵条約」と「中立条約」を混同しているかに見える。日ソ間には太平洋戦争勃発直前の昭和16年4月13日に調印の中立条約だけが存在した。中立条約なら破っても構わないとと言う意味ではもちろんないが、不可侵条約とはその重みがまるで違う。昭和14年のノモンハン事件などで、戦車が中心のソ連陸軍機動力をいやというほど知らされた日本は翌年10月、不可侵条約の締結を提案したが、ソ連は拒否し、代わりに中立条約を提案。日本はやむなく妥協した。だが、日本だけが中立条約を誠実に守ったわけではない。昭和16年6月、ドイツがソ連との不可侵条約を破って侵攻を開始すると、日本は日ソ中立条約よりも日独伊の3国同盟を優先させると表明、満州で関東軍特別演習(関特演)を実施、ソ連攻撃の機会を公然と伺った点が知られている。

ソ連はヤルタ会談の代償取立て
【2】ポツダム宣言(米英中ソ)を受託し降伏した日本、その北辺のチッポケな島にソ連の軍隊が終戦後に攻め込んだのは何故か。スターリン首相は連合国を統率する米国から、戦争終盤での日本への参戦見返りに約束されていた大きな代償が、終戦直前のルーズベルト大統領急死に伴う米指導者の交代や、これに伴う外交路線の転換などで、無視される可能性もあると見て、終戦の正式成立までの間に自力で取り立てる「強制執行」の単独行動に出たわけだ。代償は昭和20年2月に黒海の保養地ヤルタで行われた米英ソ首脳会談で密約として合意されていた。それによるとヒトラー・ドイツの降伏から2,3カ月後にソ連が対日参戦すれば、樺太南部の返還のほか、戦勝の結果として千島列島南部もソ連に引き渡すとされていた。ソ連は千島列島の取得で、世界戦略上これ以上なく重要な外洋への自由な出入り口を確保できる。だが、ヤルタ会談2カ月後、米ソ関係が暗転した。

米は原爆実験成功で態度豹変
【3】同年7月17日にドイツのポツダムで首脳会談が始まる前日、挨拶に来たルーズベルト後継者のトルーマンにスターリンが「近く対日参戦を実施する」と伝えると、米軍死傷者の激増と国内厭戦ムードの高まりに悩むトルーマンは相好を崩して喜んだ。だが、本国で人類史上初の原爆実験に成功したとの至急電が届くと、トルーマンは一夜のうちに態度を一変させた。ソ連の対日参戦はもはや不必要と見たのが1つ。ポツダム宣言にソ連を原加入させると戦後処理にソ連の発言権を不当に増やすことになるとして、宣言からソ連の名を落とすことに決め、代わりに中国を追加したのが2つ。米国の心変わりに激怒したスターリンは8月8日、勝手に日本に宣戦布告、これを口実にポツダム宣言にも押し掛け加入した。日本終戦の第1は、昭和天皇がポツダム宣言の正式受託を玉音放送で告げた8月15日。第2は、米戦艦ミズーリー甲板上で、日本の全権代表と9連合国代表が降伏文書に正式調印した国際法的な降伏の9月3日。「終わらざる夏」に描かれたソ連の千島列島攻撃は2つの“終戦”の間隙を縫って、外交的ギャップを巧みに衝いたものだった。

千島と北海道北半分求めたソ連
【4】マッカーサー連合国軍最高司令官は日本の降伏表明と同時に「即時停戦」を命じ、連合9カ国は攻撃を停止したが、ソ連軍参謀総長のアントノフ陸軍大将は「極東の日本軍に対して、軍事行動を停止するか継続するかは、ソ連軍最高司令官(スターリン)しか決定し得ない」と米側に返事し、電光石火の動きに出た。8月16日にスターリン首相からトルーマン米大統領に「日本軍がソ連軍に集団降伏すべき地域の中に、千島列島及び北海道の北半分を含めるようにして貰いたい」との至急電が送られた。北海道の南北分割は、東側の釧路、西側の留萌を結ぶラインの上下となっていた。ト大統領は2日後の8月18日、①千島列島の占領には同意する②北海道北部の占領は拒否する――との返電を送った。この“お墨付き“を得たソ連の行動は早く、カムチャッカ半島に待機していた第2極東軍が同日、千島列島に襲いかかり、最北端の占守島では日本軍の激しい抵抗を受けたものの、
東京からの指令で停戦が発効。その後、ソ連軍は8月31日までに列島南端のウルップ島に至る占領を終えている。だが、ソ連軍はここで停止せず、樺太南部の占領を終えた第1極東軍が8月28日には北方領土に向かい、9月5日までに無血占領した。――以上がソ連の北方領土占領と半世紀以上の実効支配に至る仲教授の分析。不幸中の幸いは米国が北海道北部の占領を即座に拒否、日本が東西ドイツ分裂のような悲劇を避けられたことだ。